8年前、東日本大震災のあの日あの時
どこで何をしていたでしょうか?

あの日、まだ学生だった私は、
成田空港第2ターミナルにいました。

クラスの友達とわくわく、ピカピカの大きな新品のスーツケースを引きずって
その日の夕方、はじめてのホームステイでオーストラリアへ飛び立つ予定でした。

震災3.11 あの日、私は成田空港で…
※当日の地震が起こる前の様子。

突然に震度6の大きな揺れと地響きを感じたのは、
ちょうどチェックイン前の自由行動で解散したところ。
ドドドドという地響きと共に、壁の一部が音を立てて剥がれたり
看板が落ちたりして、周りの多くの人がパニック状態でした。
その場にいた全員が、スーツケースをその場に置いて出口に殺到しました。

もちろんその日の飛行機は欠航となりました。

その夜、参加者の保護者は集まって話し合ったそうです。
「子どもたちを空港から、今すぐ長野県に帰すか」
「このまま、次に乗れる飛行機でオーストラリアに送り出すか」


その間にも津波の死亡者数はどんどんと恐ろしい数に膨れ上がり
まるでCGのような信じられない光景がテレビで流れ不安を煽ります。
保護者の立場であれば、心配で仕方なかったに違いありません…。

余震におびえながら朝を迎えた翌日、
「こんな時にオーストラリアへ本当に行ってもよいのか…」と考えながら
私たちは空港で約1日、振替便の席が手配できるまで待ちました。

そして、封鎖されていた滑走路の安全が確保でき
前の日に乗るはずだった、同じ時間の振替の便が飛ぶことが決まりました。
保護者全員が出した結論はもちろん、「子どもたちをオーストラリアへ」でした。

震災3.11 あの日、私は成田空港で…

オーストラリアに着くと、それまでの重たい空気は嘘のよう。
心配させまいとホストファミリーが温かく迎え入れてくれ、現地の学校でも
「こんな大変な時に、よくぞ来てくれました!」と歓迎してもらいました。

お店やレストランで会話した現地の人は、日本人とわかると途端に
「住んでいる地域は、“ツナミ“大丈夫?!」と必ず心配してくれ
「気を付けて帰ってね」と、皆が声をかけてくれました。

ホストファミリーは津波の辛い映像を見なくて良いように、と
気を遣って家のテレビでは楽しい映画を流してくれました。

ホストファミリー宅のワンちゃんたちと一緒に広い庭を裸足で走ったことも
ホストシスターと一緒に次の日のランチに持参するサンドイッチを作ったことも
シスターたちと、絵を描いて交換しよう!と真夜中まで一緒に絵を描いていたら
「明日も学校でしょ、早く寝なさーい」とホストマザーにちょっと叱られたことも。
あの時、学生の時だから過ごせた貴重な時間です。

不謹慎かもしれませんが、
オーストラリアでのステイは楽しい思い出しかありません。
もちろん、英語が話せなくて悔しい思いもしましたし、早起きするのも苦手でしたが
ホストファミリーや現地の学校の生徒たちの、思いやりや心優しさに包まれていました。

そして、現地の人々がどれだけ
被災地の方々のために心を痛めているのか実感しました。


震災3.11 あの日、私は成田空港で…
※現地校での日本語クラスにて。

今や、ファミリーが飼っていたワンちゃんも世代交代し、
ホストシスターも1児のママとなりました。
ファミリーとは今でも誕生日メッセージをやりとりする仲です。

東日本大震災から
もう8年、まだ8年。

今日は改めて、
8年前のオーストラリアでの出会いに感謝すると同時に
被災し辛い思いをされた方々に、想いを馳せたいと思います。

Eri


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